乃木神社
乃木坂にあります。
乃木希典 のぎ まれすけ 死後、神格化された 旅順要塞攻略の司令官であった。
その後、帰国して、16歳までは実家で暮らし、ほどなく家を出て、弟の養父であった玉木文之進のもとから、藩校に通った。
明治4年に、陸軍少佐に任官。
西南戦争では、鹿児島軍との乱戦の中、退却中に軍旗を失うとゆう大失態を演じてしまった。
乃木の軍人としてのふるまいは、清廉潔白なものではあるが、政治的な駆け引きなどには疎かった。
この手紙によってかどうかはわからないが、処刑は中止され、シベリアに流刑となった。
そして残されステッセルの家族に、自分が死ぬまで生活費を送り続けていた。
なんだか素敵生き方だな。。。
中にははいれないが、窓越しに中が見られました。
知人に伺った話では、9月には中に入れるようです。
なかなか好みの、お住まいです。
こんな山小屋に住んで、毎日本を読むのもいいかもしれません。
奥様は、静子。 鹿児島藩医の子として生まれた。
乃木と結婚して、2人の息子をもうけた。
ロシアとの戦いがはじまると、2人の息子も従軍した。しかし、第1の悲報は早くにもたらされた。
長男の戦死である。
乃木は留守を預けた妻に電報をうった。
カツスケ メイヨノセンシ マンゾクス ヨロコベ イサイフ マレスケ
続けてだした手紙には、親子3人の柩が揃うまで葬式をだしてはならないと記した。
以前、私が看護師として働いていた時、夜勤中に80歳代の女性と、お話しした夜があった。
急に、「あなたは若いから、ジュウゴの教えなんて知らないでしょねぇ。」
『えっ!? 十五の教え?』 私は15個の、教訓があるのかと思った。
違った。
銃後であった。
戦地に男の人を送り出した時の、女性のたしなみとゆうか、心構えみたいなものであった。
この頃、唯一無二と愛した男を送り出した1年目。さみしくて、さみしくて、仕方ない頃。
この夜の、彼女が教えてくださったことがなければ、私は頑張ってこれなかったであろう。
今でも思う。なぜあの時に彼女はあんな話を私にしたのだろうか?
静子の苦難は、これだけではなかった。
夫の旅順攻略は思うように進まず、第3軍は数多くの戦死者をだした。
すると、家にむかって「乃木のバカヤロウ!」 「兵隊を片っ端から殺しやがって!」 「さっさと腹を切れ!」 などの罵声、石を投げられたり・・・。
静子は人目につかないように家を出て、伊勢神宮へ参拝にいった。
そして、残った次男も戦死。
夫、希典に従い自決した。
辞世の句は、「出でましてかへります日のなしときく けふの御幸(みゆき)に逢うぞかなしき」
白木綿の襦袢の上に、白い麻布を着け、更にその上につるばみ色のコウチギを羽織って、紺子色の袴をはき、死骸が乱れぬように、膝をくくって正座。
剣で3度胸をつき、4度目に希典の介錯をうけて、ようやく絶命したらしい。
「ゴルフはマナーだよ。」
誰かが言ったのを思い出す。
いかに紳士面した方でも、勝とうと思って、意外な本性が出てしまうものである。
女性も同じだよ。
凛とした女性になりたいと思った。